日本にいれば必要ない?
およそ140万人いると推計 (2018年時点) されている在外邦人の方々にとっては、それぞれ外国の土地で生活していく上で異文化理解は欠かすことができません。しかし、近年では海外に出たことがなくても異文化理解が必要な時代になってきました。
ひと昔前であれば、日本で生まれ、育ち、仕事をするのであれば、異文化というものに深く接する機会はそれほどなかったかもしれません。もちろん、映画や音楽などのエンターテイメントやスポーツ分野では外国の文化に接していましたが、これらを見たり聞いたり観戦したりという行動はすべて受け身のもので、双方向のコミュニケーションではありません。
しかし、ここ数年で世界各地から観光客が日本に押し寄せるようになると状況は大きく変わりました。東京や京都などの人気主要都市が外国人観光客でごった返すだけでなく、リアルな日本文化を求める訪日客は相当に田舎の街にまで足を延ばすようになり、今では日本中で外国人を見かけないところはほとんどないと言っても言い過ぎではないでしょう。
こうした変化のため、外国文化を背景に持つ人と直接コミュニケーションをとる機会が身近に増えてきました。新型コロナの影響で一時的に訪日外国人が激減したとはいえ、いまや日本人の多くが何らかの形で異文化との接点を持つようになったと言ってもいいでしょう。異文化理解はもはや他人事ではないのです。
異文化コミュニケーションが難しい理由
異文化コミュニケーションというのはどちらの側にも努力が求められるプロセスであり、自分と相手の文化の違いを理解することが大前提となります。そして、違いを知るためには二つの文化を客観的に見て比べる必要があります。ところが、自分が育ってきた文化を“見る”というのは、実はその中にどっぷりと浸かったままでは非常に難しいことなのです。
異文化理解に関する研究でよく言われることですが、文化と人間の関係は水と魚の関係と似ています。魚は水の中で生きていますが、魚自身に水は見えていません。水の外に出て初めて自分がその中を泳いでいた水という存在を“見る”ことができるわけです。
プライバシーの境界はどこ?
一例を考えてみましょう。
マレーシアの特に中華系ローカルは、友人が引っ越したと聞くと「家賃はどのぐらい?」、車を買ったと知ると「値段は?」、仕事の話になると「給料はいくら?」と、とにかくお金の話を聞いてきます。欧米人はもちろんのこと、日本人でもこうした質問をされて素直に答える人は少ないでしょう。「プライバシーに関わることを聞くな」「マナーがない」と怒る人さえいるかもしれません。
では、彼らは本当に“プライバシーを無視”する“マナーがない”人たちなのでしょうか?
決してそうではありません。マレーシア人にも当然お互いに触れないプライバシーはあります。ただ、プライバシーについて欧米人や日本人が考える境界線と彼らの境界線が違うだけなのです。一見するとぶしつけに聞こえる質問も、「外国人だからって家賃をボラれているかもしれない。不当に高かったら家主に交渉してあげよう」とか「知り合いが車を探してるから、いい車屋だったらぜひ紹介してあげたい」といった親切心で言ったということを、当の本人に後から聞いたことがあります。
『自分の文化では失礼に感じることでも、相手の文化では親切な行動かもしれない』。“水の外”に出ないと、こうした見方をするのは難しいものです。もちろん、「『郷に入っては郷に従え』ということわざにもあるように、日本に来る側が日本の文化をよく知る努力をすべきだ」と考える方もいるでしょう。そのこと自体、確かに間違ってはいません。しかし、相手が自分に合わせるべきだと考えていると異文化コミュニケーションは中々うまくいきません。どうしてでしょうか?
自分 VS 相手 ―どちらが合わせる?
異文化コミュニケーションにおけるトラブルの多くは、一方がよかれと思って (あるいは悪いと思わずに) したことが相手の気分を害したというケースです。した側とされた側、どちらが文化のギャップに気づきやすいかは考えるまでもないでしょう。ほとんどの場合、した側は何が問題なのかすら分かっていないはずです。たとえ相手の文化を知ろうと努力していたとしても、無意識のうちに自分が育った文化での習慣が出てしまうことも少なくありません。
異文化理解において非常に重要なのが、どちらか片方だけが正しくて相手が間違っているというケースはまずないということです。だれでも、自国の文化が正しいと思う傾向を持っていることは否定できません。それが自分の泳いでいる“水”だからです。しかし、文化的背景が原因で自分の気分を害されたと感じたなら、ほぼ確実にその逆も起っているということを忘れないようにしましょう。相手が気づかない=自分だって気づかないのです。
ここで、もう一度先ほどのプライバシーを例に考えましょう。答えを濁すことで“言いたくない”というメッセージを伝えようとしても、日本人同士なら読み取れるはずのサインが通用しません。「友だちなのに、なんで正直に言ってくれないんだ」と逆に気分を損ねたローカルもいました。どちらの側も自分の文化を基準に物事をとらえたため、日本人としては「質問がプライベートのラインを超えている」と感じ、マレーシア人としては「こんな質問に答えられない程度の人間関係だってことか」と感じたため、何とも微妙な空気となってしまったのです。
このように、異文化コミュニケーションで成功するためには、お互いに相手が自分を理解してくれることを期待するよりも、まず自分が相手を理解できるよう努力することが基本となります。「こんなことをするなんて (自分の文化では) 非常識だ」と結論を出してしまう前に、「相手の文化では何が常識なんだろう」と視点を変えることで、いわば自分の“水”から出て判断することができるのです。
もちろん、自分以外の文化を見下したり、どこに行っても自分のやり方を押し通したりする人は残念ながらいますし、そうした人にこちらが全部合わせなければいけないという意味ではありません。とはいえ、ほとんどの場合、相手の真意が何かを理解しようとする努力は決して無駄にはならないということは覚えておきたいものです。
異文化理解は面白い
異文化コミュニケーション能力とは、ただ「〇〇語ができる」といった言語能力のことではありません。ステレオタイプや思い込みに影響されずに相手を理解するための、総合的な認識力と自己分析が求められます。
文化が違えば育った環境や価値観も異なります。そうした違いについて理解できない間はストレスや緊張を生む原因になりますが、お互いに一旦理解を深められると、むしろそれを多様性としてポジティブにとらえることができるでしょう。
最後に、組織行動学を専門とする教授がビジネスの視点から異文化理解について分かりやすく分析した名著より、次の一文を紹介してこの記事を終わることにします。
人間の文化は多岐にわたり、尽きることのない驚きと発見の源となり得る ― それは決して涸れることのない、素晴らしい経験と不断の学習の源泉なのだ。
「異文化理解力」―エリン・メイヤー著/田岡恵 監訳/樋口武志 訳 英治出版 2015
コメント