【書評】『百年泥』(第158回芥川賞受賞作)

Book cover of Hyakunen-doro書評
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(※ 本の帯や裏表紙にある内容紹介以外、直接ストーリーに関わるネタバレなし)

主人公の「私」は、色々あってインドのチェンナイで現地IT企業の社員に日本語を教えている。そんな中、100年に1度の洪水が発生しアダイヤール川が氾濫したことで生まれた途方もない量の泥。この「百年泥」を中心にさまざまな人・モノ・思い出が交錯して展開していく。

著者の石井遊佳さんは実際に海外で日本語教師をしていた経歴を持つだけに、本作品でも一筋縄ではいかぬ生徒や異文化という背景による勘違い、ありがちな言葉の誤用など、経験者なら思わず反応してしまうような“日本語教師あるある”がリアルに描かれている。

また、京阪本線の主要駅 (特急も停まる) がある大阪府枚方ひらかた市生まれというネイティブの大阪人だけあって、作品全体を通してそこかしこに散りばめられたツッコみが軽快なテンポを生み出すと同時に、次々と起こる現実離れした出来事に妙なリアリティーを与えている。

例えば、ヒンズー教の神の一つであるガネーシャ像の姿かたちを描写するのに「なんやしらんむっちゃはでな象の置き物」という表現が出てくる。実物を見たことのある人なら分かると思うが、まさにそのまんまだ。“なんやしらん”という部分に、ただの象じゃない得体の知れない雰囲気がギュッと込められている。ふざけたようでいてすごくリアルかつストレートなこの言い回しでジャブを打たれた後では、大阪市とチェンナイ市が町中にある招き猫とガネーシャ像をお互いそっくり交換したという、これまたふざけたような作中の出来事が、まるで昨日の新聞記事で読んだニュースのようにスッと入ってきてしまうところがこの作品の凄みだ。

ガネーシャ像 by Darpan Joshi on Pixabay

内容自体とはあまり関係ないが、登場人物 (インド人) の名前もツボにはまった。物語のカギとなる日本語クラスの生徒デーヴァラージをはじめ、シヴァクマール、アーナンダ、ティヤーガラージャンなどなど、インドや東南アジアにいれば必ず知り合いに何人かはいる名前が次々に出てくる。だから、読みながら自分の知っているラージやシヴァ、クマール、ティヤガ (普段はこうした短縮名で呼ぶことが多い) などの顔が浮かんできて「うんうん、彼だったらこういうこと言いそう」などと、名前が同じというだけで勝手に考えながら楽しんでしまう。

この作品にはマジックリアリズム的な要素がそこかしこに見られ、他のレビューでも言われているように、ラテンアメリカ文学の巨匠ガルシア=マルケスの『百年の孤独』とも共通する空気を感じる。主人公の「私」は何を見ようが特に驚くわけではなく、ある意味では人生を達観したかのような反応で物語が進んでいく点が、非現実を現実のように描くマジックリアリズムの印象をより強くしているのかもしれない。一つの文が中々終わらないままぬらぬらと描写が続き、それでいて置いてけぼりになることなく読めてしまうのも『百年泥』と『百年の孤独』の似ている部分だ。

『百年泥』では、特に不思議なところのない現実的な場面でも、論理にあわない出来事が起こる場面でも、あるいは静かに感動を誘う場面でも、各所で挿入される「私」の心の中のツッコみ(=一歩引いたところからの笑い)が絶妙なスパイスとなっており、それがこの作品独自の世界観を作り上げている。

作中で一つ、異文化コミュニケーションの視点から印象に残った部分がある。主人公の「私」が次のように語っているところだ。

「なんで私、まわりの人たちの言うことが分かるような気がするんだろう?たしか昨日までタミル語がひと言も分からなかったはず」

実際の異文化コミュニケーションでも、今まで分からなかったものが突然分かったように感じることがある。単語と文法を頑張って覚えたからとかいう問題ではなく、直感で相手の話した外国語が理解できたような気がするのだ。しかし、いざ会話を続けようとするとやっぱり分からない。なんだ、気のせいかとも思うが、つい先ほど感じた「分かった」という感覚はどう考えても偽りではないし、実際に後で確認してみるとやはり自分が理解した通りだったと判明することもある。この感覚は経験した人でないと想像しにくいかもしれないが、きっと著者は自身でも同じような経験をしたことがあるのだろうと思う。

マジックリアリズム的だとはいえ、この作品は決してファンタジーではなく現実的な場面も多く出てくる。ただし、インドでは見慣れた普段の光景であっても日本の感覚では非現実的だということも少なくない。混沌としたインドという国とそこに住む人々を過去と現在が交叉する時間軸の中で描写し、インド哲学や仏教の世界観も巧みに織り込まれている『百年泥』は、特に難しいところのない文体や一見シンプルな設定とは裏腹に、深く読めば読むほど実にスケールの大きなテーマが隠されていることに気づく。ある程度好き嫌いは分かれるかもしれないが、細かいことに引っかからずまずは素直に読み進めて楽しみたい作品だ。

『百年泥』石井遊佳 著/新潮文庫 2020

<作品のポイント>

  • 最後まで飽きさせない軽妙なテンポ
  • 巧みなマジックリアリズム的技法
  • インド哲学や仏教への深い造詣に裏打ちされた世界観
  • 作品全体に見られる大阪人らしいユーモア
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